2010年11月27日土曜日

栗2


松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等八子
松返りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴(9・1783)

鈍感な人でもないでしょうに、京に行ったまま私の所には来もしないで、麻呂という人は。まったく、もう・・・

栗の花は四月に咲きますが実は秋になります、三栗とはイガの中には栗の実が三つあることからの表現ですぐ後に続く中を導く語

旧暦の10月になると和菓子のお店には「亥の子餅」なるものがあらわれる、お店によると由来は源氏物語と説明書きがあるがこれは光源氏が紫と暮らし始めた二日目の夜に亥の子餅がだされたとあり、子孫繁栄の縁起にちなみこの時期に食べられるようになったとある、元は神功皇后の三韓出兵で筑紫に還啓された皇后は後の応神天皇を出産されたが香阪(かごさか)王子と忍熊(おしくま)王子が生まれた皇太子を討とうと決起、香阪の王子は能勢の山中で戦の吉凶を占う祈狩(うけがり)中に大きな猪に襲われ死亡した、これを知った忍熊王子はこの事を聞き敗走し瀬田で討ち死にした。後に応神天皇はこの事を知り能勢の住民に10月の亥の日に亥の子餅を納めるように命じたとされている。応神天皇の敵である異母兄弟を討ちとった猪の出現は天皇にとっては吉であった、宮中では献上された亥の子餅を官位により色と包み紙を別け下賜した。亥の子餅を献上する役人は猪子役人と呼ばれ当番の者が御所に出向きまた納められた餅は餅箱にして100~150であったそうで納める側の能勢の住民にとってはもち米、栗、小豆の調達に苦労をしたと思われる。
 亥の子餅は別々に蒸したもち米と小豆を挺桶(ねりおけ)でこねつけて淡紅色に仕上げ別に煮た小豆の餡を流しかけ栗の実を並べ熊笹の葉で覆い献上された。餅は猪肉、栗は猪の骨、笹は牙を模している。
後に室町幕府や徳川幕府も年中行事として亥の子祝いと称し大名・役人の登城する日・時刻、退出する時刻まで決めさらには城内のかがり火は釣瓶式の大篝火とまで定められた。
10月朔日に亥の子餅(幕府では鳥の子餅と称した)を拝領した大名や役人はこの日に囲炉裏開きをし炉で鍋を焼き火鉢に火を盛る習慣となった。
 茶道では11月に風炉から炉に変え釜を鎖で吊るして茶事を行うが江戸時代のこの風習が起源ではないだろうか。
亥の子餅は京菓子とされているが本来は摂津の能勢で作られ献上されていたものでありその形、色は決められていた、現在では亥と焼き印が押された煎餅状のものや饅頭もありそれぞれの店で工夫を凝らし味だけでなく目でも楽しめる。
亥の子餅は源氏物語による言い伝えではなく古事に由来し栗は猪の骨であるそうだと説明できる和菓子屋さんは少ない。
この餅、大きさは市販の子餅を少し小さくした程度であるが2個もとめると牛丼1杯より高い、一口でいただく方もあるかもしれないが小腹が空いたからとか昼食前に空腹を満たすためにパクリといただくようなことはしないでいただきたい2個で牛丼1杯半でまだおつりがありますから、上品にいただいてくださいと言いませんが美味しくいただきましょう。
淡紅色の餅を猪の肉にみたてるところは羊の肉を羊羹にみたてたところとあうのは日本人の発想の豊かなところにあると思う、餅をいただくときにはこのウンチクを忘れてゆっくり味わいましょう。