海原の 遠き渡りを風流士の 遊ぶを見むとなづさひぞ来し(6・1016)
海原のはるか遠くから、風流な人たちの遊ぶのを見ようと苦労してやって来たのだ
風流士(みやびを)趣を理解する洗練された感覚を持つ人とでもいうのか
万葉集には風流士の言葉が見られるが野暮な凡人では理解できないことを楽しんでいいる、この歌は蓬莱からの仙女をあらわす袋鬘を壁に飾り粋な集いを楽しんでいるものでただ酒を飲み飲めないものは飲めばいつか酒に強くなるのだというような野暮天な宴会馬鹿には理解できない催しを詠っている。
壁のフクロカズラがカラスウリかカズラであるかは問題でないので宴席で壁の飾りが鬘ですなというような程度の教養では裸の王様と同じということだそうで下戸には思いやりをもち楽しく過ぎゆく季節を堪能するのが粋な人である。
嵯峨の大覚寺には大沢池があり中秋の名月を楽しみ翌月は芋名月を堪能し羽織物が一枚ほしいこのごろは菊が美しい特に嵯峨菊は見ものである、菊の時期が過ぎると紅葉である散紅葉はどこで見ても美しいものであるが景色の移り変わりを同じ所で楽しむのもまたいいものである。
よく一度、訪れたところは前に行ったからという方もあるが景色にしても博物館にしても何度も訪れてみるもの物の見方が変わり発見があるものである。
菊を詠った万葉歌はないようです