2010年12月1日水曜日

ぬばたま


ぬばたまの黒髪濡れて沫雪の 降るにや来ますここだ恋ふれば(16・3805)

漆黒の黒髪も濡らして淡雪が降っているのにいらしたのでしょうか。私がこれほどまでにお慕いしていましたので

ぬばたま、ヒオウギの種子。直径5ミリの黒い種子で黒や夜の枕詞としてつかわれることが多い
ヌバタマの黒髪、綺麗に櫛でとかれた漆黒の女性の髪

人を思うということは暑さ寒さは関係ないようである、雪が降ろうが豪雨であろうが支障とならないようですが深草少将は風邪には勝てなかった100日の間妙齢の美人の所に通えば心を許しましょうと言われ通い続けること99日100日目に風邪をひき高熱のため寝込み通えなかった、100日の恋は成就しなかったそうである。
99日何事もなく経過したのに最後の1日彼に災いが起こった彼女はなぜ彼のもとに行かなかったのか、山科から伏見までそれほど遠くない、思いやりと愛があればもっと良い話に発展していたのでは!!

栄福堂という和菓子屋さんの焼き菓子に「想いやり」という饅頭があり形がハートで甘みはおさえめで、甘いのが苦手な方にもいいと思う、1つから買えお値段も手ごろでした。包み紙は千代紙風で食べながら折り鶴を折ってみて楽しむ方法もある。おやつにはちょうどいい大きさだが彼氏と彼女が食べるなら半分づつでもOKである。

バレンタインデーやホワイトデーにどうでしょうか彼も彼女も心に残るお菓子になる

2010年11月28日日曜日

マユミ1


南淵の細川山に立つ檀弓束 纒くまで人に知らえじ

檀(まゆみ)別名ヤマニシキギ、日本・中国に自生する雌雄異株の落葉の低木とされているが樹は結構高くなる、花は初夏に咲き果実は秋、実の色は品種により白・薄紅・農紅と異なる果実は熟すると果皮が割れ種子が現れる、市販のマユミは雌木がほとんどであるが雌木1本だけで果実がなる、水分条件と剪定に注意すれば害虫に強いので庭に植えるのに適している、秋や初冬にメジロやヒヨドリが実を食べるが種子の脂肪油には下痢、吐き気、筋肉の麻痺を引き起こす成分が含まれヒヨドリやメジロが大量に果実を食べると飛べなくなり凍死することがある。

新芽は山菜として天麩羅、おひたしにされるので庭に植えて楽しまれる方もある、樹はよくしなり強いことから弓の材料とされていた古くは和紙の材料にされた。

生薬としてつかわれ合歓皮(ごうかんひ)衛(えい)矛(ぼう)とよばれ樹皮や種子がつかわれるが強い毒性と神経麻痺をおこす成分を含むので素人が安易に用いるには注意が必要、打ち身、便秘に効能があり蚤やシラミには煎じ汁が効くそうである。

2010年11月27日土曜日

栗2


松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等八子
松返りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴(9・1783)

鈍感な人でもないでしょうに、京に行ったまま私の所には来もしないで、麻呂という人は。まったく、もう・・・

栗の花は四月に咲きますが実は秋になります、三栗とはイガの中には栗の実が三つあることからの表現ですぐ後に続く中を導く語

旧暦の10月になると和菓子のお店には「亥の子餅」なるものがあらわれる、お店によると由来は源氏物語と説明書きがあるがこれは光源氏が紫と暮らし始めた二日目の夜に亥の子餅がだされたとあり、子孫繁栄の縁起にちなみこの時期に食べられるようになったとある、元は神功皇后の三韓出兵で筑紫に還啓された皇后は後の応神天皇を出産されたが香阪(かごさか)王子と忍熊(おしくま)王子が生まれた皇太子を討とうと決起、香阪の王子は能勢の山中で戦の吉凶を占う祈狩(うけがり)中に大きな猪に襲われ死亡した、これを知った忍熊王子はこの事を聞き敗走し瀬田で討ち死にした。後に応神天皇はこの事を知り能勢の住民に10月の亥の日に亥の子餅を納めるように命じたとされている。応神天皇の敵である異母兄弟を討ちとった猪の出現は天皇にとっては吉であった、宮中では献上された亥の子餅を官位により色と包み紙を別け下賜した。亥の子餅を献上する役人は猪子役人と呼ばれ当番の者が御所に出向きまた納められた餅は餅箱にして100~150であったそうで納める側の能勢の住民にとってはもち米、栗、小豆の調達に苦労をしたと思われる。
 亥の子餅は別々に蒸したもち米と小豆を挺桶(ねりおけ)でこねつけて淡紅色に仕上げ別に煮た小豆の餡を流しかけ栗の実を並べ熊笹の葉で覆い献上された。餅は猪肉、栗は猪の骨、笹は牙を模している。
後に室町幕府や徳川幕府も年中行事として亥の子祝いと称し大名・役人の登城する日・時刻、退出する時刻まで決めさらには城内のかがり火は釣瓶式の大篝火とまで定められた。
10月朔日に亥の子餅(幕府では鳥の子餅と称した)を拝領した大名や役人はこの日に囲炉裏開きをし炉で鍋を焼き火鉢に火を盛る習慣となった。
 茶道では11月に風炉から炉に変え釜を鎖で吊るして茶事を行うが江戸時代のこの風習が起源ではないだろうか。
亥の子餅は京菓子とされているが本来は摂津の能勢で作られ献上されていたものでありその形、色は決められていた、現在では亥と焼き印が押された煎餅状のものや饅頭もありそれぞれの店で工夫を凝らし味だけでなく目でも楽しめる。
亥の子餅は源氏物語による言い伝えではなく古事に由来し栗は猪の骨であるそうだと説明できる和菓子屋さんは少ない。
この餅、大きさは市販の子餅を少し小さくした程度であるが2個もとめると牛丼1杯より高い、一口でいただく方もあるかもしれないが小腹が空いたからとか昼食前に空腹を満たすためにパクリといただくようなことはしないでいただきたい2個で牛丼1杯半でまだおつりがありますから、上品にいただいてくださいと言いませんが美味しくいただきましょう。
淡紅色の餅を猪の肉にみたてるところは羊の肉を羊羹にみたてたところとあうのは日本人の発想の豊かなところにあると思う、餅をいただくときにはこのウンチクを忘れてゆっくり味わいましょう。

2010年11月25日木曜日

紅葉2


めづらしとわが思ふ君は秋山の 初黄葉に似てこそありけれ(8・1584長忌寸娘)
なつかしく存じ上げるあなたは、秋山のはつもみちに似て初々しく匂やかでいらしゃいますね。

春や秋の山を詠ったものは長歌を含み結構ある万葉の当時は紅葉を黄葉と表記し楓(カエデ)の表現は少ない。

言葉の表現で秋を端的に言い表したのが「小さな秋」がある、小さい冬・小さい夏・小さい春と詠われることはほとんどない、暑い夏から心地よい涼しさが眠気を誘う小春日和という陰暦十月の表現も生まれたのではないでしょうか。

秋といえば黄色いイチョウや紅色のモミジをかたどったものを抹茶色の羊羹の上に置いて透明の寒天を流し込むと苔むした庭に舞う小さな秋が目のごちそうにそして暖かい飲みごろのお茶を淹れて出された器を手にするとほっとする暖かさの感覚が手に伝わり、それをいただくと五臓六腑にしみわたる温かさ、抹茶でも煎茶・紅茶でもいいコーヒーも温かいものなら、これからはおもてなしとしては心のこもったもの。

茶樹は帰化植物のひとつであるそして黄色く色づいて秋を思わせる公孫樹もそうである日本の気候・風土に応じたものであることは間違いない。

暑くなったり寒くなると風邪が流行るが、庶民がお茶を飲用するようになりはじめたころお茶問屋の丁稚に流行り病なしと云われるようになり既成事実からお茶の殺菌効果を知った昔の人は茶ガラを部屋にまいて掃除をしたり高価な煎茶は天日干しをし炒ってフリカケにして恵である成分や栄養をすべていただいていたそうである。

2010年11月17日水曜日

蓼2


みてぐらを奈良より出でて水蓼穂積に至り鳥網張る、坂手を過ぎ、石走る、神なび山に朝宮に仕は奉りて吉野へと入ります見れば古思ほゆ

水蓼(みづたで)水辺に生える蓼、生薬ではヤナギタデのことを言い水蓼(スイリョウ)と呼ぶ。
八穂蓼(やほだて)となると沢山の穂がついたタデという意味になる
鳥網(となみ)、坂手(さかて)、石(いわ)、朝宮(あさみや)、古(いにしえ)

奈良を出て、穂積(ほづみ)に至って坂手(さかて)を過ぎて、神なび山の朝宮(あさみや)を奉りし吉野に入っていらっしゃるのを見ると昔の事を思い起こします

奈良、穂積、坂手、神なび山、奈良の地名

持統天皇のことを詠んだ歌とされているが詠み人知らず

タデ科の一種に櫻蓼(サクラタデ)がある淡紅色の花が咲くものと白色の花が咲くものがある、これも食あたり、虫刺されの生薬とされ珍重されてきた。

蓼味噌
 タデの若葉、花茎をよく水洗いし細かく刻んでおき、すり鉢に味噌を入れ刻んでおいたタデを入れよくアタリ出汁を少量(好みの量)加えさらによくアタルとタデ味噌ができる。刺身蒟蒻のたれや酢味噌和え・サラダのソースによくあう和風のソースである大人の味を好むならいろいろと量を変えチャレンジしてみるべし。

2010年11月15日月曜日

しゅうかいどう



伊藤左千夫 左千夫歌集 から
秋海棠のさはに咲きたる背戸山に米とぐ女の児手白足白

朝顔は都の少女秋海棠はひなの少女か秋海棠吾は

秋海棠、ベゴニア属の多年生草本で球根植物、原産地は中国山東省・マレー半島で江戸時代に日本に持ち込まれた帰化植物である、松尾芭蕉は花の色を見て西瓜色と句を詠んでいるが花の色は淡いピンク、濃いピンク、白があり観賞用として品種改良がされ、耐寒性が高く直射日光を嫌い明るいところをを好むので木の下草として庭に植えられることが多い。
貝原益軒の大和本草に中国名も秋海棠で音読みでシュウカイドウと言い瓔珞草(ヨウラクソウ)とも呼ばれる。
全草に殺菌作用のあるシュウ酸を含み茎・葉を生のまますり潰しかゆみのある皮膚疾患(水虫・タムシ)の患部に直接塗布すると効果があるそうで一時的な措置に庭の草を刈り用いた、葉を食べた方があり酸っぱいと感想を記している書物もある。

2010年11月14日日曜日

蓼 1


わが屋戸の穂蓼古幹採み生し 実になるまでに君をし待たむ(11・2759)
わがやどのほたでふるからつみおほし みになるまでにきみをしまたむ

我が家の蓼の古い茎から穂を摘んで新芽を出させ、それがまた実になるまであなたを待っているでしょう

蓼(たで)、タデ科タデ属の一年草、ヤナギタデ、イヌタデ、ベニタデ、アオタデ、など種類は多くが全国いたるところに自生する

蓼は奈良時代には大豆や海藻に並ぶ大事な食品であったが貴族や上級役人あたりは薬味、生薬としての効能よりもどくとくの辛みからどこにでもある気にもとめない植物扱いをしていたようであるが、庶民にとっては一度に全草を摘まず脇芽をのばして日々食用とした大切な植物のひとつであった。蓼食う虫も好き好きという諺があるが蓼のもつ辛みと身体に良い成分に対し大変失礼な表現である。

(原文)小兒等 草者勿苅 八穂蓼乎 穂積乃阿曽我 腋草乎可礼
(読み)童ども 草はな刈りそ 八穂蓼を 穂積の朝臣が 腋草を刈れ(16・3842平群朝臣)
(意味)子供たちよ草を刈らないで穂積の朝臣の臭い脇毛を刈りなさい
これは彼の子孫としては大変恥ずかしい詩ではないでしょうか、仲の良い友人をからかったつもりでしょうが数百年というか万葉歌が語り伝えられる限り残る、ユーモアととれるか際どいところで、賢明な歌人は詠み人知らずとなるようにしている、東歌や詠み人知らずの恋詩のほうが蓼も喜ぶ

柳蓼の葉をすりつぶして酢でのばしたタデ酢は鮎の塩焼きに添えられる。タデの辛み成分はポリゴシアールと呼ばれるセスキテルペン・ジアルデヒドで昆虫の摂食阻害作用や抗菌作用がありタデオナールとも呼ばれている。ヨーロッパでは柳蓼の実を胡椒の代用としてつかわれるようで果実の辛みも捨てがたいものがあるようです。
タデ食う虫も好き好きというが辛みの強い蓼を食べる虫もあるということは有害なものを含んでいないということで適度に食べることは良いことではないでしょうか
柳蓼の成分は血液の凝固促進、血圧降下作用があり消炎、利尿、下痢止め、解熱、虫さされ、食あたり、暑気あたりに効果があるということで民間薬として重宝されてきた、暑気あたりには茎と葉をすりつぶし同量のオロシショウガを混ぜて服用すると夏バテ防止に良いそうでです、痛みのある腫れものには生の葉をもんで塗布すると痛みが治まるそうで応急的な痛み止めには効果がある。
ネパールでは葉を砕いて川に流し魚をとるそうである、また葉は黄色の染料ともなるらしい。