2010年8月26日木曜日


未通女等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは(4・501柿本人麻呂)
をとめらがそでふるやまのみづがきのひさしきときゆおもひきわれは

未通女、この歌の場合は斎宮(未婚の内親王あるいは女王)、巫女(未婚の神に仕える女性)
布留、地名、石上神宮(いそがみじんぐう)がある場所(天理市)
袖布留山、巫女が袖を振るとは神を迎える行為
瑞垣、玉垣の内側に設ける木製の垣で神殿を囲んでいる
久しき時ゆ、長い間
思ひき、物思いをしていた
 
 人麻呂は神宮に仕える斎宮か巫女に恋をしその面影を思いづづけたようです、神楽殿で一糸乱れることなく踊る姿は神々しく見えますよね、同じく仕事に打ち込む人の姿は奇麗なものです、
 この歌にある女性は恋をしてはならない女性であったのでは、斎宮の任期中は人麻呂も思い続けるだけであるとこの歌を詠ったのではないでしょうか

 神社で神職から渡され納める玉串のサカキ、花は白く実はドングリに似ているが食べられない、以前、ドングリと間違って食べ中毒を起こしたと報じられたことがあるがよく観察し知り尽くした方が指導すればこのような間違いは起こらないはず。毒がなければイノシシやシカが食べているはずで山の中ではそのような観察も必要。

 石上神宮を拝する家は少ないと思われる、養母が永くお札等を居間の片隅に祀り転居後も食堂に祀っていました、神棚の方角は石上神宮の方向を向いていました。明治・大正生まれの方は仏教・神道を問わず宗教心が強く昭和生まれになると非常に薄くな、養母が石上神宮を崇拝したのは神道系の学校で教育を受けた影響や実父が皇宮警察官であった生活環境も大きな要素であったものと思います。
 伊勢神宮でなくなぜ石上神宮なのかは古事記や日本書紀に興味がなかったことから聞かずじまいでしたが古くからの門徒としての家系であるのに毎年のように石上神宮に初穂・玉串料を納めていたことから養母の心に何か大きなものがあったと思われます。

 石上神宮は伊勢神宮、大神神社とともに日本で最も古い神社のひとつで、拝殿は宝剣が埋められている神域の山、神主は物部氏の末裔である森氏が世襲制で受け継いでいる、また、社号として神宮を名乗る神社であるが日本書紀にも伊勢神宮とともに記されているが皇室や皇祖に関連する神社ではない、古事記や日本書紀に由来する宝剣、鏡、八百万の神に由来する神社は鹿島神宮、香取神宮、熱田神宮等六社あるがそのうち最も古いのが石上神宮である。
 記録などによると斎宮が派遣されていた、神武天皇の東征に関連し健御雷神(たけみかずちのかみ)が国土平定にもちいた横刀(たち)布都御魂(ふつのみたま)を石上神宮に坐すと古事記にあることから地理的に見て熊野方面に対する大和政権の方針ではなかったのかとも思われる。石上神宮の神域は杉の山であるそうです花粉症の私は春先はお参りできない涼しくなれば平城遷都一三〇〇年を実感しながら古事記・万葉の地を尋ねてみようと思っています

 祖母は熱心な門徒であったそうですが実母や姉妹は宗教心が薄い、甥にあってはないと言ってもよいぐらいでであるのに結婚式やお宮参りはする、クリスマスをして夏には町内の地蔵盆で盆踊り11月には七五三でお宮参り、お寺や神社のあり方に「ふん」とう思想を持っているのなら結婚式やお宮参りは人前式でする気概がを持てばさすがと思うがそこまで徹底していないところが人の弱さか・・・たぶん甥は「門徒」「それ何」と言うであろう、さらに、「門徒の意味は」と聞き返し説明できなければそれ見たことかと勝ち誇るだろう、親の顔が見たいものです?